仲間の声

私たちの仲間たちの声が集まりました

Hさんと新型コロナウイルス

3月下旬、Hさんが「私は新型コロナウイルスに、感染しているかもしれない」と申し出てきた。Hさんは東京のN精神科病院に5年近く入院していた。

 Hさんの目標は、夜間中学へ入学し、学ぶことだ。そして将来は薬局で働きたい。N病院からの退院を契機に、家族から独立し、生活保護を世帯分離して、がじゅまるに入居した。Hさんの家族は、お母さんと弟さんだ。厳しい生活をともに乗り越えてきたので、結びつきは非常に強い。そのために3人がそれぞれの「自立」ができなかった。

 昨年の6月にやってきたときは、人との距離が取れず、巻き込みあってしまい、体調を整えるためにO病院への入院となったが、今度退院してきてからは、着実に地域生活を定着させる努力をしているHさんだ。話し好きで、話題は豊富だ。他者の優れている点を認め、上手にお金をやりくりする楽しさ、いまの人間関係を大切にすることを、肌で覚えてきた。

 Hさんは長い間、精神科病院の閉鎖病棟に入院していたので、一般医療にかかることが極めて困難だった。がじゅまるへ来てから、精神科はもちろんだけど、整形外科、眼科、皮膚科、内科、循環器内科とこまめに通院している。

 3月下旬、息切れがすること、心臓が肥大化していること、咳が激しく出るときがあること、熱が37度以上から36度程度を推移していること等が重なり、Hさんは「新型コロナウイルスに感染してしまったのではないか」と訴えるようになった。墨田保健所へ相談し、曳舟病院の新型コロナウイルス検査予約を3月30日に取ることができた。

 感染の疑いのある人がいるのであれば、検査結果が出るまでは就労継続支援B型としてのこらーるカフェも閉所しなければいけない。3月下旬から4月初めの1週間閉所し、金銭管理等の個別支援を受けているカフェのメンバーへの支援とがじゅまるの活動だけとした。

 Hさんの曳舟病院での2時間にわたる検査結果は、コロナウイルスの感染はなく、つまり「PCR検査の必要はない」ということで、私たちは安堵した。そして4月9日まではこらーるカフェを営業した。4月10日からはこらーるカフェの活動を、近況報告・昼食会・清掃・わかちあいという内容で週3回行い、あとの2日は個別支援を行うこととした。メンバーも職員も通所・通勤をするか否かのは本人に任せた。

◆PCR検査と精神障害

 Hさんは、ずっと身体の不全感を訴えていた。レントゲンをとると、肺はきれいだった。動悸は「不安神経症なのではないか。精神科の先生に相談してください」と言われた。咳は「喘息をもっているのではないか」と言われた。

 職員の家族の同僚に濃厚接触者が出て、その息子さんは2週間自宅待機した。メンバーの通院先の診療所も「具合が悪いときは、主治医が了解すれば、薬は送ります」と用心深くなっていた。台東区の永寿総合病院では新型コロナウイルスに大勢の患者さんが感染し、亡くなる方々もあった。墨田区の都立墨東病院でも患者さんや職員に感染者が出た。

 4月末。「もう一度コロナウイルスの検査を受けたい。なんでも精神科の問題にされるのは納得できない」というHさんの希望を素直に受け止めることが肝要だと私は思った。

 今度すぐに、同愛記念病院でのPCR検査を受けることができた。3日後、憲法記念日の朝、同愛記念病院から連絡が来た。個人情報なので慎重ではあったが、温かな声がした。「Hさんご自身に直接お伝えしなければなりません。少しでも早く安心していただきたいですから」。

 5月5日。こらーるカフェとグループホームの国保連請求事務を行った。こらーるカフェの4月分の収益は3月分の半分だ。これが続けばこらーるカフェの運営は無理だ。しかし、私はいつもこらーるカフェの活動に追われてきた感じがする。怪我の功名とでも言おうか、生活していくこと、人間関係を築いていくことが極めて困難な人びとに、丁寧に関わる大切さを噛み締めたのもまた事実だ。

救急入院の体験

私の病名は統合失調症だ。救急入院で嫌だったのは退院が全く未定であったことだ。薬を飲まなかった。ご飯も食べず、水も飲めなかった。脱水症状を起こして、一般内科に緊急入院し、次に精神病院へ搬送された。起きたら寝てという入院生活だった。3ヶ月で退院した。2年くらい前のことだ。夢と現実の世界がはっきりしなかった。アパートの階下の人が救急車を呼んでくれた。

 薬に頼らずにやってみたいという自分への挑戦だった。『恋愛妄想』があって、3ヶ月前から周囲の人々を試していた。「ある女性が自分とつきあいたいと考えている。噂をしている」と思い、緊張していた。

 その前にも救急入院をした。その時も薬に頼らずにやってみたいと思い、薬をのまたかった。この時は後で聞いたら、自分で歩いて退院先に行ったらしいけれど、よく覚えていない。妄想があって、自分が好きな女性を周囲の人々が知っていると思っていた。入院先では、周囲のすべての医療関係者に自分は保護されていると感じていた。スタッフのSさんが結核の薬を届けてくれた。(当時ごく軽度であったが、Aさんが結核であったのは事実である。Sさんはグループホームの世話人で、こらーるたいとうの非常勤スタッフでもある50後半の男性である)。本当は1か月くらいで退院したいものだ。

Bさん
Bさんの体験

僕にとって初めての入院だった。アルコールで入院した。大暴れした。家のガラスをことごとく割った。両親が私の身体にまたがって抑え込んだ。警官が入ってきたので、裸の僕は思わず叫んだ。「このポリスを逮捕してください」。精神病院に緊急入院させられたのは僕の方だった。注射されて気が付いたら、真っ暗な部屋で拘束されていた。喉がカラカラで、痰がすごく出た。都内の後方病院がなかなか見つからなかった。ふらふらで、頭がボーっとした。誰かが遠くで泣いていた。「あなたの身の安全のために、手錠をしまう」と言われた。気が付いたら車椅子に乗っていた。

 やっと八王子(Bさんの自宅は東京の東部にあるから、この病院まで行くには2時間以上かかる)の精神病院に搬送され、入院の時に意思確認された。「NO」と言ったけれど入院となり、「剃刀とコード類は駄目ですよ」と家族が言われていた。家族が日用品を買ってきてくれて、帰ってしまうと急に不安と寂しさが溢れてきた。みんなが敵に見えた。でも、次の日先生と話をした。「誰も敵とは思いませんから、退院させて下さい」と。しかし先生に、「状態の悪い人ほどそう言うよね」と言われた。父からも「外泊はまだ駄目だ」と言われた。アカシジアがでていた。先生には「医学的には治ったのかも知れないが、『懺悔』のつもりで入院していなさい」といわれた。外にいる人々が無性に羨ましかった。2か月の入院だった。

 友人に同じ病気の人がいる。この友人は3回措置入院している。この友人の入院を見ていると、警察が来るよりは、消防署のほうがいい。

 水が欲しかったなぁ。人間を『物』扱いしていると思った。

 (水を制限することについて、同席の元東京都の保健師であったKさんから「それは辛かったね」とBさんの気持ちをうけとめたうえで、「意識がはっきりしないときには誤飲する危険もある」という指摘があった。Bさんは頷いていた)。

Cさん
Cさんの体験

私の病名は躁鬱病と何とか神経症といわれている。(Cさんは15歳の頃に過呼吸を起こし、他県の精神病院に両親と受診した。こうしたことは以前にもあり、その時は診察だけで帰ってきたので、Cさんは診察が済んだら、また家に帰れると思っていた。しかしCさんはその日入院となり、Cさんが退院したのは25年後だった。家族は強制退院を通告されてから、Cさんに施設入所目的で、東京都の知的障害者に発行される『愛の手帳』を修得させている)。

 長い入院後、退院してから私は、家族は頼れないと判断して、ヘルパーさんを頼ってアパートで独り暮らしを始めた。区内の精神病院に緊急で入院したこともあったが、「あなたは単なるわがままだ」と医者にいわれて、アルコール病棟の入れられた。薬をくれなかった。「のまなくていい」といわれた。二週間隔離拘束された。この二週間、一回も診察はなかった。ヘルパーさんにそのじょうが入って迎えにきてくれた。

Dさん
Dさんの体験

病名は統合失調症。三年前に人間関係がこじれ、自傷行為のため精神病院に緊急入院した。結構いい人だと思っていた、アルコール依存症のおじさんの世界に入り込んでしまった。家族以外の人との距離の取り方を学んだと、今は思っているけれど。

 インターネットで疲れて、250錠くらいの向精神薬をいっぺんにのんで緊急入院したこともある。4日間眠り続けた。この2回の入院先が、通院先の精神病院だったことはよかったと思っている。

Eさん
Eさんの体験

乾電池をのんだことがある。保護室で洗剤を飲んで死のうとおもったこともある。眼球があがって辛かった。しかし「それは副作用だ」ということがわからなかったから、誰にも言わなかった。病気の症状だとばかり思っていた。もっと早く言えばよかった。

Fさん
Fさんの体験

病名は統合失調症。家族に「診察に行こう」といわれて、他県の国立病院に行ったら即入院だった。区内の総合病院の精神科に、家族が薬をもらいに行っていた。

 精神病院の入院中に薬を調整した。初めは薬をのむと身体が動かなかったから。作業は好きだからという理由で、農作業をやった。入院した国立病院の先生が、僕が障害年金を貰えるように書類を書いてくれた。知り合いもできたが、退院してからは連絡もしないし、連絡も来なかった。退院後は、また、もとの病院に自分で通院している。この病院の先生は、とてもよく話を聴いてくれる。

Gさん
Gさんの体験

私の病名は統合失調症。若い頃から60か所くらい職場が変わった。働くこともできず、暴れてしまい、都立の精神病院に入院させられた。でもこの病院はいつも使っていた病院だったので、私は甘えてしまい「もう働きたくない」と言ってしまった。どこでもうまく働けず、虚しさが込み上げてきた。薬をのんでいると、眠たくて、身体が重くて動きが遅くなる。都立病院に入院してから2年たった頃、民間病院に転院を勧められた。其処のほうが厳しかったので、私にとってはそのほうがいいと思って転院した。そこに5年間いた。先生に「こらーるたいとうで3年間は頑張るのだよ。焦ってはいけないよ」といわれて退院した。

Hさん
Hさんの体験

僕の病名は統合失調症。もともとは区内のクリニックを使っていた。その頃実家にいて、ぶらぶらしていた。両親が「病院へ行こう」といって電車で他県の病院へ連れて行った。その病院は、通院していたクリニックが紹介状を書いてくれたところだ。病院へ着くと、僕は『幻聴』の指示で暴れまわった。みんなが変な顔で見ていた。でも『幻聴』が色々指示するものだから、僕はあばれていた。先生が入院を勧めた。僕は家にいるのも良くないと思っていたので「三日間なら入院します」と言った。入院して一週間過ぎた。僕は「一週間に延びたのかなぁ」と思った。よく覚えていないけれど二週間たったころ、家に電話した。そうしたら母が心配してそれから毎週土曜日に面会に来てくれた。

 二年間入院していた。(「退院したいって言わなかったのですか」と問うと)両親はともかく、病院の人に言うと関係がまずくなるのではと思った。言っても無駄だと思った。『幻聴』が「病院なんかに逃げ込んでいていいのか!」なんて言っていた。(「辛かったね」)ええ。僕はもう駄目だと思っていた。(「駄目ってどういう意味か」)色々な意味でそう思っていた。

 二年たった時、先生が「そろそろ退院しますか」と聞いたので、「ええ、退院したいです」と言った。今はこの病院に通院している。

Cさま
Hさんの体験

ただいま準備中です。

救急医療への意見

Aさんの意見

ただいま準備中です。

Bさんの意見

ただいま準備中です。

Cさんの意見

ただいま準備中です。

Dさんの意見

ただいま準備中です。

Eさんの意見

ただいま準備中です。

Fさんの意見

ただいま準備中です。

Gさんの意見

ただいま準備中です。

Hさんの意見

ただいま準備中です。

Kさん(元保健師で、こらーるたいとうの非常勤スタッフ)の意見

ただいま準備中です。

お気軽にお問合せ・ご相談ください

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら
03-5819-3651
受付時間
10:00~16:00
定休日
土曜・日曜・祝日

お気軽にお問合せください

お電話のお問合せ

03-5819-3651

新着情報・お知らせ

2022/1/27
ホームページを更新しました
2020/08/28
「活動内容」ページを更新しました
2022/08/1
こらーるカフェのカレンダーを更新しました